同空港は1927年、ジョン・ロジャース空港として開港
1947年にはホノルル空港に、1951年にはホノルル国際空港にそれぞれ変更した
イノウエ元上院議員は、1924年ホノルル生まれ
ハワイ大とジョージ・ワシントン大で学び、第二次世界大戦では米陸軍に入隊した
1959年、ハワイ州選出の会員議員に当選
1962年には米上院議員に選出され、新たな航空交通管制施設の建設や、滑走路と誘導路を改善するなど、空港の発展に寄与した
2012年死去
現地メディアによると、4月27日に空港の名称を変更した
以下 ウィキペディアに掲載
父・兵太郎と母・かめ(旧姓:今永)のもと、1924年(大正13年)にアメリカ合衆国ハワイ準州ホノルルで生まれる
父母は1899年(明治32年)9月28日に福岡県八女郡横山村(現上陽町・八女市)から祖父母の浅吉・モヨとともにアメリカに移住したものである 祖父は福岡県、祖母・母は広島県の出身という
イノウエはホノルルに育ち、ハワイ大学マノア校に進学した
ハワイ大学在学中の1941年12月に日本軍による真珠湾攻撃が行われ、アメリカが第二次世界大戦に参戦した後、ハワイでの医療支援活動に志願、その後アメリカ人としての忠誠心を示すためにアメリカ軍に志願し、アメリカ陸軍の日系人部隊である第442連隊戦闘団に配属され、ヨーロッパ前線で戦う
イタリアにおけるドイツ国防軍との戦いにおいて、1945年4月21日にドイツ軍兵士の使用したグレネードランチャーによって右腕を負傷し切断、1年8ヶ月に亘って陸軍病院に入院したものの、多くの部隊員とともに数々の勲章を授与され帰国し、日系アメリカ人社会だけでなくアメリカ陸軍から英雄としてたたえられる 1947年に陸軍大尉として名誉除隊した 右腕を失ったことにより、当初目指していた医学の道をあきらめた ハワイ大学に復学して政治学を専攻し、1950年にBachelor of Arts in political scienceを得て同大学を卒業した
卒業後、ジョージ・ワシントン大学の法科大学院に進学し、1953年にJ.D.を授与された 1954年に同じく退役軍人のエルトン・サカモト、サカエ・タカハシらとCentral Pacific Bankを設立した。
日系人初の上下両院議員
その後は政界に進出し、1954年には準州であったハワイ議会の議員に当選した
1959年には民主党からハワイ州選出の連邦下院議員に立候補し当選し、アメリカ初の日系人議員となる
その後、1963年には上院議員となり、戦時補償法の制定などに尽力する傍ら、1973年にはウォータゲート事件と1987年にはイラン・コントラ事件の上院調査特別委委員長となり注目を浴びる アメリカ軍の予算に大きな権限を持つ上院歳出委員会国防小委員会の民主党長老議員として、エリック・シンセキ大将の陸軍参謀総長就任に尽力している
議員として
民主党の上院議員として上院歳出委員会の国防小委員会で上級委員を務めたほか、カリフォルニア州ロサンゼルスの日本人街リトル・トーキョーにある全米日系人博物館の理事長も務めた
2000年6月21日に、陸軍殊勲十字章、ブロンズ・スター章の受賞理由が見直され、軍人に贈られる最高位の勲章である名誉勲章を受章したほか、2007年11月、フランス政府からレジオンドヌール勲章(シュヴァリエ)を授与された
2008年アメリカ合衆国大統領選挙においては、ヒラリー・クリントン上院議員を支持した
2010年の中間選挙にて民主党は上下院共に苦戦を強いられたが、再選を果たした。
1980年代に、日米間の貿易摩擦が政治問題化した際には、リチャード・ゲッパートなどと共に、対日批判の急先鋒として立ち回った 1996年に前妻と死別 2008年1月29日に「全米日系人博物館」館長 アイリーン・ヒラノと再婚した
慰安婦問題
2007年には、中華人民共和国や韓国が主張する「慰安婦強制連行説」に立脚するアメリカ合衆国下院121号決議については、大日本帝国軍人による慰安婦への暴行抑圧は疑いの余地はなく、日本国政府の6人の内閣総理大臣と2つの衆議院決議が、1994年以来問題を認め謝罪を行ってきたことを尊重するべきであるとして、対日外交の継続性の観点から新たに謝罪を求めることに反対した
死去
2012年12月、ワシントンD.C.郊外のメリーランド州ベセスダにあるジョージ・ワシントン大学附属病院に入院し、酸素吸入の処置を受けていたが、同月17日17時過ぎ、呼吸器合併症のため死去 88歳没 死去の前、「ハワイと国家のために力の限り誠実に勤めた
まあまあ、できたと思う」と述べ、最後の言葉は「アロハ(さようなら)」だった
死去に際して、オバマ大統領は「真の英雄を失った」「彼が示した勇気は万人の尊敬を集めた」との声明を発表したのに続き、パネッタ国防長官、クリントン国務長官、上下両院の軍事委員長らが相次いで功績を称えた
同月20日、遺体を納めた棺がアメリカ合衆国議会議事堂中央にある大広間に安置され、追悼式典が開かれた
大広間に遺体が安置されるのは、エイブラハム・リンカーン、ジョン・F・ケネディなど一部大統領や、ごく少数の議員に限られており、イノウエ議員は全体でも32人目、かつアジア系の人物としては初めて大広間に遺体が安置された人物ととなった
日本の野田佳彦首相はイノウエ夫人に書簡を送り、藤村修官房長官は「在米日系人社会の結束を強化するなど、日系関係の発展に尽力され、その功績は言葉では言い尽くせない ご遺族、米国政府、米国民の皆さまに心から哀悼の意を表したい」と弔意を表した
2013年5月24日、アメリカ海軍の新造アーレイ・バーク級ミサイル駆逐艦の艦名が「ダニエル・イノウエ(DDG-118)」に決定したと発表された 8月、大統領自由勲章追贈。2017年4月27日に、ホノルル国際空港の正式名称が「ダニエル・K・イノウエ国際空港(Daniel K. Inouye International Airport, HNL)」となった